ぷあしお道場

病弱オタクが好き勝手やってるブログ

母が死んだ日

 一ヶ月前の今日。母親が死んだ。死因は膵癌、年齢は58歳だった。

母は膵癌のほかにも、乳がんや子宮頚がんも患っており生きているのが不思議なくらいにとても元気だった。がん患者なのにどうしてここまで明るいのだろう。そう思わせるほどに、気丈だった。

 

だがそんな母が、正直嫌いだった。理由はシンプルなもので中高生の時、水をかけられたり勝手に物を捨てられたり、罵詈雑言を言われたり、たまに包丁で殺されそうになったから…つまりは、虐待のせいだった。虐待されていたせいか、中高生は鳴りを潜めていたが18を超えたあたりから遅い反抗期が来た。そのせいで親とぶつかり合うことも多かったし、余計に精神的に虐待をされ続けていたし鬱が悪化した事もあった。

 だが、そんな話は今はどうでもいい。問題はそんな嫌いな母が死んだと言うのに、何故か全く嬉しくなかったのだ。それどころか、涙が止まらなかった。人間厄介なもので、いくら憎い相手でも血の繋がった親が死ぬと、勝手に涙が出るのだと思った。親族がいる前では一切泣かない様に堪えていたが、家に帰宅して気を抜くとすぐに涙が止まらなくなる。嗚咽をあげて、とにかく泣いた。

 

 最初に呼び出されたのは、4月10日だった。その日は担当医と今後のことを話し合う日だった。せん妄状態の母が途中で寝落ちながらも「家に帰りたい」「手が冷たいね、暖かい部屋で先生のお話聞いてね」「結卦島、愛してるよ」と言っていた。母は家に帰る事を強く希望していたが、家に帰るということは、私の負担が大きくなるという事なので医者と話してこのまま病院にいて貰う事にした。母には帰れないことは一切黙っていた。

 

その二日後、月曜日。容体が急変した。血圧が低くなったのだ。学校の帰りに母に面会すると眠ったままで、声を掛けても返事さえしなかった。口は半開きでゆっくりと呼吸をしていた。いつも気丈だった母がここまで弱っているのは正直ショックを受けた。もう会えないかもしれないから、と家族が何人か呼び出され10年以上前に離婚した父が足を運んで母の手を握って声を掛け続けてくれた。その優しさをあの日向けてさえいれば、母はこう病気にならなかったかもしれないのに。再び襲いかかる父への憎しみと、別れた家族がまたひとつになれた喜びが私の中では渦巻いていた。父の呼びかけにその日一切喋らなかった母が、「ありがとう」と2回話した。

それが母の最期の言葉だった。

あれから血圧が戻り、まだ頑張れる状態になったと思っていた時の出来事だった。16日の朝5時ごろに病院から電話が掛かってきて、危篤状態の母の傍にいる事になった。その日最初に見た時の心拍数は80だったのに、昼を過ぎる頃には60〜70辺りまで減っていた。人は急に死なずに、緩やかに死ぬという。それを今体験しているのだと思った。3時ごろ、事情があって病院を一度離れると病院から電話が入り「心臓が止まった」と連絡を受けた。

 

15時40分。母は膵癌によって亡くなった。

立ち会った大叔母曰く最期に大きく息を吐いて以来何も言わなくなったらしい。戻った頃には母の体は硬直が始まっており、鼻や指先が冷たく腕がほのかに暖かかった。死んだ母の表情は、眠った様だった。

 

 それからの1週間はあっという間に過ぎ去った。私は喪主だったので、色々な手続きをしなくてはならない。葬儀の打ち合わせなど叔母と父を交えて行った。何もかもが初めてのことで、ドッと疲れた。湯灌の儀を終わらせ、着替えさせて貰ったあとの母はまだ生きているように思えた。告別式には姉や、兄、親戚が数名参列した。棺に花を入れ、お別れを済ませ、遺体は燃え、母は骨になった。そう、母は本当に死んだのだ。

 

 一ヶ月経った今も、母のことを考えると寂しくなってしまう。生前はあんなにも鬱陶しかったのに不思議なもので、母からのLINEを見返したり去年の誕生日に貰った手紙を見返すたびに涙が出そうになる。未だに入院しているようなさえ気がしている。

もし、猫と一緒に住んでいなかったら私は精神的にどうかなっていたと思う。

 

納骨式は私の誕生日の次の日、23日だ。

それまで少しずつ遺品整理と心の整理をしているが、1年以上かかりそうだ。

時間が解決する問題でもあると思うので、ゆっくりと整理していきたいと思う。